快適生活研究所情報 2022年2月号 |
経営姿勢:当社は「いのち」と「こころ」を大切にする経営に徹します
経営理念:信頼のネットワーク、人に優しい天然素材で快適生活のお手伝い
(1)オミクロン株が爆発
分科会の尾身会長のお話「人流よりも人数制限が重要だ」を聞くと何を言っているのかよく分かりません。重症化率が低いので経済重視で、感染予防は二の次、有効な感染予防のための策がないと言っているようにみえます。1月21日現在救急搬送困難事案が4000件を超え、前年を大きく上回っています。既に医療は崩壊し、多くの自宅放置が出てきています。(第5波では自宅放置で675人が亡くなっています)前回の経験から医療再構築が叫ばれていました。また前とは違い学童の蔓延が増えています。(私が住む木津川市ではここ1週間の感染者の1割が10歳未満です)そうなると家族が感染し、一番危惧されるのは高齢者に感染が広がることです。国や地方自治体は緊急事態宣言を出すことをためらっています。特別給付金を出して10日でもいいから自宅にとどまってもらってはと思います。幸いオミクロンは3日ぐらいで発症するようですし、10日間自宅待機で十分だと思うのですが。
(2)明治時代に大流行したコレラに学ぶ
日本の歴史を振り返ると全国で感染症が度々大流行しています。江戸末期から明治時代、致死率の高さからコロリと呼ばれたコレラですが、日本細菌学の父と呼ばれる北里柴三郎が万国衛生会議で、「長崎とジャワ島との間を往復する1隻のオランダ船が、この伝染病を最初に我々のもとへもたらした。長崎は当時の日本において異国人、すなわち清国人とオランダ人と貿易取引を行うただ一つの都市であった。コレラは先ずそこで発生し、長崎を取り囲む日本の南西部に広がったが、数ヶ月後に日本の内陸部へと到達し、間もなく大流行となった」。と述べています。特に長崎での流行は苛烈で「ほぼすべての家庭がその病に苦しみ家族全員がその犠牲に陥るケースもあるほどだった」と伝えています。日本国内で2度目の大流行は36年後の1858年です。長崎で発生したコレラは数か月後には江戸に至り、8月下旬から数か月で10万人以上の死者を出しています。流行は江戸にとどまらず京都や大阪にも被害は拡大し、深刻な打撃を与えました。この時の流行で日本全体では13,710人が罹患し7967人死亡しています。長崎や横浜などコレラが猛威を振るったところは致死率80%にのぼりました。驚くことに男性の患者数が女性の3倍に及んでいます。当時この流行を防ぐために内務省は消毒にトイレの清掃と下水の洗浄を推進しています。消毒の決め手は濃厚石炭酸水とあります。これは消毒用フェノール水(殺菌消毒液)を指すようです。しかし当時の防疫知識を総動員してもコレラの猛威に対抗できず、1886年に10万人を越える死者が出ています。1890年、1895年にも大流行し、ようやく落ち着くのは1920年に入ってからのことでした。
ここで私たちが学ぶことは「感染症恐るべし」、特に未知の感染症には総力を挙げて取り組むべきで、その撃退には莫大な時間と労力、費用がかかると言うことです。下水消毒は参考になると感じました。オミクロンはデルタと比較して重症化率が低いために過小評価する傾向が分科会や政府、厚生省に覗えますが、大きな後遺症が予想されますし、根本的な特効薬が出来るまで、感染防止に鋭意努力するべきだと思います。