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快適生活研究所情報 2018年3月号

経営姿勢:当社は「いのち」と「こころ」を大切にする経営に徹します

経営理念:信頼のネットワーク、人に優しい天然素材で快適生活のお手伝い

(1)「ごめん」という一言の力 児童虐待防止機構オレンジCAPO理事長島田妙子さん

島田さんは4歳で両親が離婚し、2人のお兄さんと児童養護施設に預けられました。7歳の時にお父さんが再婚し、家族そろって生活することが出来るようになりました。その当時のことをこう話しています。「継母が妊娠した時、年子で手の掛かる私達の世話が億劫になったのか、溜まりに溜まったストレスを爆発させました。突然私の腕を靴ベラで叩きました。継母の顔つきがいつもと違い、恐ろしく私は泣きだしました。後年聞いたところその時継母は謝ろうと思ったそうですが、私と目が合った瞬間「何やその目は」と思わずどなってしまったそうです。心が崩壊した瞬間でしょう。その日から継母は私を叩くようになりました。食器を洗っていたら後ろから蹴飛ばされたり、真冬に自分たちのものを洗濯板で洗わせたり、一晩中寝かせなかったりはまだましな方で、タバコやアイロンの熱で何度も全身をあぶられました。父と継母は喧嘩が絶えず、父の顔は鬼の形相に変わって酒量が増え、継母と一緒になって私達を虐待し始めました。包丁を振るう父から追いかけられたり、湯船に沈められて死にかけたこともあります。それでもいつか優しかった頃の父に戻ってくれるのではないかと願い、誰にも助けを求めませんでした。何度も家出しましたし、中学校1年の時自殺未遂もしました。辛いから死ぬのではなくて、私が死んだらやっと親が気づくだろうと、親への見せしめのために遺書を書いて死んでやろうという気持ちでした。中学2年の時担任になったマッハ先生という渾名の27歳の女性の先生が、私のあざや傷を見て「何かあったら電話するように」と言って10円くれました。そんなある日父が泥酔して帰宅した後、私は首を絞められて意識を失いかけました。大兄に助けられましたが、カチンときた父は傍においていたガラス製の灰皿で思い切り大兄を殴りつけました。父は完全に理性を失っていたのです。その日の晩大兄は父と継母の寝室の前で金属バットを握り締めて震えながら泣いていました。大兄は次の日家を出ました。私ももう限界だったのでマッハ先生にもらった10円で電話をしました。生きるか死ぬか、そんな状況の中で先生に出会えたのは奇跡でした。中学卒業まで2年間児童養護施設に保護されていました。布団で寝れて、ご飯が3度食べれて、そして何よりも暴力を振るわれない、普通の生活を送ることが出来たのが嬉しかったです。中学を卒業して食品工場の正社員で雇われ、結婚して2人の子供を育てました。一人はアスペルガー症候群でした。そしてアルツハイマーの舅の面倒を見て、ストレスは溜まるばかりでした。その頃私は重度の「くれない病」に掛かっていました。くれない病の一番恐ろしいところは感謝力が低下することです。私は精神的にまいってしまい、子供がパニックを起こした時に姑の「いい加減にしろ。この子の口をどうにかせい」の一言に、私の何かが壊れました。泣き叫ぶ息子の口と鼻を押さえてしまったのです。私は泣けるだけ泣いて、テーブルの下に隠れて震えていた息子を抱きかかえて、心から「ごめんね」と伝えました。謝るという行為がどれほど威力を持っているか。この時痛いほど実感しました。ごめんという一言に息子よりも私自身がホッとしました。人間ですからイライラすることもあります。しんどくなり、人に当たりたくなります。そんな時、これは神様が自分に何かを気付かせてくれるために用意してくれた出来事だと思い、自分の感情を受け入れるようにしています」。島田さんは周囲の方から何でそんなに明るいのですかと尋ねられるそうです。「過去の自分の良かったことを一つだけ言うと立ち上がる力があることです。一番悲しい思いをしても立ち上がる。なにくそと自分を奮い立たせる。その連続が人生です」と。今の仕事をされるきっかけは既に亡くなられた小兄が「もし病気が治ったらボランティアでもいいから虐待に関する活動がしたい」という遺志を引き継ぎたいと考えられたからです。

(2)まもるくん豆知識 インフルエンザの猛威が続いています。

これまでにない患者数が出ていて2度掛かる方もいるそうです。発症元は幼児、次にお父さんだそうです。小さなお子さんをお持ちの方はお気をつけ下さい。「まもるくん」で予防されることをお勧めします。