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快適生活研究所情報 2014年2月号

経営姿勢:当社は「いのち」と「こころ」を大切にする経営に徹します

経営理念:信頼のネットワーク、人に優しい天然素材で快適生活のお手伝い

(1)視聴率100%男と言われた萩本欽一さんのお話

萩本さんがこの世界に入ったきっかけは。「母親が借金取りにごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝っているのを傍で見ていて、涙が出て、これは働かなくてはと思った。それで5年で借金返して家が建てられる仕事は何かと考えた。」選択肢は何んだったんですか。「野球の選手、俳優、泥棒。(笑い)高校で野球部に入ったけどライトフライをワンバンドで取ったら、コーチからそのまま取れるボールは取るように言われて、これは向いていないと思い諦めた。芝居を見に行って、俳優の中で一番下にいるのはコメディアンだったから、これならやれるかなと思った。」じゃぁ人前で話すのが得意だったのですか。「いいえ。恥ずかしがりやで、セリフを3つもらうと、一つ目は舞台に出ると直ぐに言うからいいけど、その後で確かもう2つあったなと思うと思い出せなくって。恥ずかしくて声が小さくなって。皆が帰った後、舞台で100回以上大きな声で練習した時、声を大きくするといいのではと思いついた。それから大きな声でコントをやるようになった。声を大きくすると人生は変わるよ。」劇団に入る人をどういう基準で選ぶの。「ガッツがある人、勇気のある人、察することが出来る人。特に察することが大切で、コント55号の相棒二郎チャン(坂上二郎)は特にその才能が優れていた。」この前明治座での稽古を見せてもらったのですが、台本がないですね。「台本があるのはコメディーでコントは即興でやるものです」欽ちゃんのお話は苦労話も笑いでオブラートされ、経験談に含蓄があり、人を引き付けて離さない魅力がありました。

(2)インドで「緑の父」と呼ばれている杉山龍丸氏に驚嘆

4万坪に及ぶ農園など私財を全て投じ、インドの不毛の地を緑化し、稲作が出来るよう土壌改良した男がいた。龍丸氏は作家夢野久作の長男として生まれ、福岡市の杉山農園で自然に囲まれて育った。祖父杉山茂丸氏は明治期から在野の人ながら政治に関わり、山県有朋らの参謀役を務めていた。当時列強に対してアジアの独立運動に協力し、孫文やインドのボースを匿ったり、他のアジア諸国の独立を支援していた。その祖父の遺言は「杉山農園は私物化せず、アジアのために使え」。このような背景で龍丸氏のインドとの交流が始まり、ガンジーの愛弟子たちが訪ねて来るようになる。昭和30年ネール首相が龍丸氏の活動を聞き、特使を派遣して支援を要請してくる。昭和37年にインドを訪問して現状をつぶさに見て歩いた。街には物乞いの人が溢れ餓死者も後を絶たない状態であった。その原因は砂漠化である。「私は罪もなく死んでいく人をそのままにはしておけない」首都デリーからアムリッツァル市までの470キロの道路に沿ってユーカリを植えることから始め、そして祖父茂丸が開発した蓬莱米を栽培して成功させる。その他の地域でも緑化に取り組んだ。結局彼は借家暮らしをしながらインドの緑化に尽くしたのである。皆が知らない凄い日本人がいる。

(3)まもるくん豆知識 インフルエンザやノロウイルスにご注意下さい

全国的にインフルエンザやノロウイルスが流行しています。とにかく外出から帰宅されたら先ず丁寧な手洗いから始めましょう。そして「まもるくん」で除菌し指間の菌も逃さず除菌。そして「まもるくん」をほんの少し入れたお水で口をすすがれることをお勧めします。